安全意識の基礎

 安全意識を考える場合、当然、人間(動物としてのヒト)の意識の構造や成り立ちを考えなければならないであろう。

 現在、意識の中心は脳にあるとされているが、脳に影響を及ぼすものとして、からだの他の部分のかかわり(東洋医学思想)や、エピゼネティックス(遺伝子の発現にかかわる事象を研究する近未来科学)など発展中の研究も多い。

 これまでの安全意識の昂揚のための施策としては、無知による危害の除去のための教育、技能を熟達させるための教育、安全大会(朝会を含む。)等の運動などがおこなわれてきたが、意識の構造に着目しての研究や施策は少なかったように思う。

 当研究所は、この面についての内外の研究を整理して、発表していきたいと考えている。

 最初の整理の仕方として、図のようなまんだら的表現を考えてみた。

 いづれは、各論を発表したい。

1 科学とは

 安全を学ぶものにとっての古典として、最も有名なものは、ハインリッヒの「災害防止の科学的研究」であろう。

 ここでも、「科学」という言葉が使われている。そこで、まず、科学について考えてみよう。

 学問としての科学は、人文、自然、理学、工学、医学など多くの分野を含んでいる。
 逆に言うと、分類されているとも言える。

 しかし、一般的に、科学の究極の目的は、すべての事象を合理的に解釈できる統一原理を発見することであるようである。

 宇宙論における素粒子の発見競争やストリング(弦)宇宙論、相対性原理、シュデリンガーの波動方程式、量子力学、いずれも、この目的の達成のために考案されてきたものである。

 また、科学の一般的手法とされているのは、構成要素の単純化、実験(思考実験を含む。)による再現性の証明及び合合理性である。

 ここで、この科学的手法の究極における問題点について述べよう。

 その一つは、別のエッセイでも記述したが、醜いあひるの子の定理が示す問題である。

 この定理は、構成要素の単純化を究極まで推し進めると、事象の判別が出来なくなるというものである。事象を判別するためには、目的に応じて、単純化する要素の範囲と選択を適切に選ばなければならないということも示している。

 災害分析のための要素化をする際等に必ず突き当たる問題である。

 つぎに、不確定性定理が示す、ある種の物理量の2者は同時に特定できないという問題である。

 さらには、カオス等によるによる不確定性である。
 
 そこで、公衆衛生を中心とする科学では、相関と論理的因果関係とを用いての手法として、疫学的手法を考案した。しかし、これも、要素として何を選ぶかとか、論理的因果関係をどこまで認知出来るかという問題に直面している。

 以上が、科学的手法が抱えている問題点である。

しかし、実践しなければ意味がない災害防止の実務では、何とかしなければならない。

さらには、安全意識について考えるときに、どのようにするのが今のところベターなのであろうか、いろいろ研究してみたい。

 ここで、最近、興味ある著書を見つけた。それは、ニューヨーク大学神経科学センターの教授であるジョセフ・ルドー氏が2003年に出版した「SYNAPTIC SELF」という著書である。日本語訳は2004年に「シナプスが人格をつくる」という表題で、みすず書房から出版されている。

 そのエッセンスは「自己」つまりあなたをあなたたらしめているものは、あなたの脳の中のニューロン相互の接続パターンを反映したものである。すなはち、自己とは、ニューロン的なものであるというものである。

 この本には、部分的に実証された各種の科学実験や論考が多数引用されており、そのパズル的組み合わせとして、この結論がなされている。

 また、シナプス結合には、DNAとその発現や生育途中における内部的あるいは外部的環境からの刺激が、大いなる影響を与えるとも記述している。

 私は、先に述べたマンダラの大筋がこの本によって支持されたようで興味深かった。

 次に、最近、私のマンダラの一部を変更した、それは、阿弥陀如来像と自己の精神活動の影響を加えたことである。

 この動機は最近ストレスによる各種の職業的疾病が話題になっているが、その予防や治癒策の一つとして、自己を取り巻く環境をそのまま受け入れることの重要性が強調されることが多い。

 実際には、どのように実践すれば良いのかはそれこそ、シナプス的自己の構造の差異によって千差万別のようである。

 それと、先にも述べた、科学的手法の限界を自己として解決する一つの大きな手段として、阿弥陀如来(親鸞の言う)を入れてみた。アミダ(無量寿光)の特長は、他の宗教と違って戒律や、排他、修身などを求めず、まかせることのみで完結するとする教えである。また、禅やヨガ、山岳信仰のように修行によって自己を磨くという考えもある。このこともやはり記述しなければならない。

 これによって、科学では解決し得ない部分を記述したつもりである。  釈迦は、死後の世界のことや、生まれ変わりのことを聞かれると、無言(無記)であったという。

 パソコンが発達して出来ないことはないように言われるが、簡単な例では1を0で割るといくつになるかとか、循環系数や無限無理数のすべての数は、パソコンでも、だれでも、答えられない。

 個人である人の形成が先に述べたように、シナプス等の精密化学の結果であるならば、個人は生まれてから死ぬまでが個人であって、その間もカオスやフラクタクルのなどの不確定性の元で変化している存在であろう。

 生まれる前や死んだ後は、元素や原子に帰り、普遍的な存在になるのではなかろうか。色即是空、空即是色はそのことを端的に表現していると解釈したい。

 話を安全意識に戻すと、個人の安全意識もその個人のそれまでの存在によって、ことなるのであるから、安全意識の高揚の方法といっても沢山の方法があって当然である。これは、医者が個人の体質を見極めつつ、投薬や治療法を決めるのと同じで、一般的な手法(ガイドライン)は、当然あるが、それだけでは済まないはなしであるとおもう。

 まだまだ勉強したい。

哲学、科学、宗教、芸術など現在分割されている思想の統一をパラダイムの基盤仮説として構成してみた。