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鵠沼の賀来神社の由来 |
鵠沼地区宗教史年表(抄録) |
西暦 |
和暦 |
月 |
日 |
記 事 |
出 典 |
852 |
承和 2 |
? |
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豊後国大分郡府内由原八幡宮の摂社善神王宮創立(賀来神社の基) |
鵠沼73号 |
869 |
貞観ll |
? |
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豊後国司、由原八幡宮の摂社善神王宮を賀来村に移し、賀来神社と改称 |
鵠沼73号 |
1779 |
安永 8 |
8 |
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大給家、賀来神社を豊後国来村から江戸神田淡路町の本邸内に御分霊勧請※同年銘の手水鉢鵠沼賀来神社 |
鵠沼12・73号 |
1781 |
天明 1 |
8 |
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賀来神社脇の善神王宮、平井兵衛門発願で祀られる |
百年の歴史 |
1872 |
明治 5 |
? |
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大給家、神田淡路町の本邸邸地を開放→賀来神社は別邸のあった本郷駒込千駄木坂下町に遷座 |
鵠沼12・73号 |
1905 |
明治38 |
5 |
10 |
賀来神社の鳥居を木下米三郎が寄贈 |
百年の歴史 |
1905 |
明治38 |
6 |
吉 |
賀来神社石垣石柱を木下利吉(神田)・木下米三郎(下谷)が献納 |
百年の歴史 |
1905 |
明治38 |
8 |
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伊東将行が大給家と賀来神社の鵠沼遷宮を協議 |
鵠沼12・73号 |
1906 |
明治39 |
10 |
9 |
大給近孝・伊東将行、賀来神社を神奈川県高座郡鵠沼村下藤が谷の当地に再度遷座し、寄付登記 |
鵠沼73号 |
1913 |
大正 2 |
2 |
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神田淡路町大給子爵邸の三七稲荷を東屋主人伊東将行らが鵠沼に移築、賀来神社となる |
藤沢市史年表 |
1921 |
大正10 |
6 |
30 |
各神社の氏子戸数、皇大神宮=280、稲荷社=30、賀来神社=100[社寺に関する文書] |
藤沢市史6巻 |
1953 |
昭和28 |
9 |
1 |
賀来神社、宗教法人に改組・登記 |
鵠沼海岸開発史 |
2004 |
平成16 |
8 |
18 |
賀来神社横にサーフボード型道祖神、造立 |
ぶらり鵠沼9号 |
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参考:http://www.den-jp.com/sub100-3.htm 鵠沼と大給子爵の関係 |
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大給(おぎゅう)家とは大給松平家のことで、松平宗家の4代目の親忠の次男の乗元を祖とする名門で、乗元が東加茂郡の大給(豊田市)地方の主だった為、この地名を取った。早くから家康に仕えて信任が厚かった。大給本流が大名になったのは天正18年、6代目の家乗の時、上野国那波郡で1万石を領した。以後も本家、一族で大名や高級旗本になった者も多い。歴代の老中も5人が勤めている。この中には有名な松平乗邑で優れた官僚政治家だった。当初は色々、転封されたが、最期は三河の西尾藩に落ち着いた。最期の藩主は乗秩(のりつね)は、早くから新政府軍に加わり、明治になって知事に。分家の松平(大給)忠昭が万治元年に豊後高松より22,000石で豊後府内藩に入封。大分県大分市の豊後府内城に入り、以後松平氏が明治まで10代続いた |
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