賀来飛霞の画

賀来飛霞 ( かくひか)は、賀来ものがたりの賀来鑑保の子の景吉の子孫である。 (以下は大分歴史事典から引用した。)

採薬の旅人

 1810−1888 幕末期に日本 本草学 の三大家の一人に数えられる賀来飛霞は、文化13年(1810)、 島原藩 領の国東郡高田(豊後高田市)に生まれた。通称を睦三朗 睦之と呼び、飛霞はその号である。

 賀来家は佐田姓を称し、中世以来、宇佐郡 安心院(あじむ)地方の豪族で、江戸時代には、島原藩豊州領の 大庄屋 を勤めた家柄。飛霞の父 有軒(ゆうけん)は、一時、 三浦 梅園(ばいえん) に師事し、のち京都に出て小野 蘭山(らんざん)に本草学を学んだ学者であった。

 2歳で父を失った飛霞は、母方の 杵築藩 士鈴木家で、19歳まで養育され、成人後、日出の 帆足 万里(ばんり) に本草学を、杵築の 十市石谷(といちせきこく) に絵画を学んだ。万里らへの師事は、万里と父有軒との交友関係に因むものであり、万里は、飛霞の教育に尽力した。

 近世期、一世を 風靡(ふうび)した本草学は、のちの博物学に相当し、植物 動物 鉱物を対象にする学問であり、近世末期 西洋医学 が持ち込まれるまで、いわゆる「漢方」医療の薬学としての基礎的な学問として貴重な存在であった。

〈薬草採集の旅〉

 飛霞は、天保12年(1841)、江戸に出て本草学を学ぶかたわら、3年間に及ぶ東北地方の薬草採集の旅をし、「東北採薬記」を著した。

 彼の兄 佐之(すけゆき)は、佐田村(安心院町)にいて医を業としていたが、弘化元年、佐之が、島原藩医として島原に出たため、佐之のあとを継いで、村医となった。この年、飛霞は日向 薩摩などを旅行し、薬草採集を行った。

 弘化3年(1846)、島原藩を通して、日向延岡藩の招きにより、高千穂地方の採薬旅行に出向き、「高千穂採薬記」をまとめた。嘉永3年(1850)、西日本を襲った 飢饉(ききん) に際して、食用植物の解説にとりかかり、やがて「救荒本草略説」を完成した。

 安政4年(1857)、兄佐之が死去すると、代わって島原藩医に登用されたが、間もなくこれを辞し、慶応3年(1867)、医師の総監督に命ぜられた。 廃藩置県 後の明治9年、小倉県の命令によって、県内の物産を採集した。同時に第八大区医務取締役となり、宇佐郡公立 四日市病院 兼医学校長に命ぜられた。

〈宇佐から東京へ〉

 日本三大本草家の一人、伊藤 圭介(けいすけ)は、師事したシーボルトから贈られたツンベルグの「植物誌」を翻訳して「 泰西(たいさい)本草 名(めいそ)」を刊行したことで知られるが、飛霞はこの伊藤圭介と交友があった。

 明治10年(1877)、圭介が東大理学部の員外教授となると飛霞は招かれて小石川植物園の御用掛りとなった。この小石川植物園は、旧幕府直営の薬草園であり、飛霞にとっては益するところ大きく、ここで圭介と共著したものが、「小石川植物園草本図説」などがある。

 飛霞の本草学研究の成果は、採薬記 救荒本草 植物形状草稿 植物雑記 図譜などに分類されるが、このうち、採薬記は、彼の足で全国各地の山野を旅して、観察体験をもとに書かれたものであり、江戸末期から、明治初期における日本各地の植生を知る上にでも極めて貴重な業績ともなる。

 採薬記では、定稿として形を整えているものに、「木曾御嶽産物誌略」 「油布嶽採薬記」 「油布嶽採薬図譜乾坤」 「嶌原採薬記」 「日光採薬記 附図写真」 「杵築採薬記」などのほかに、先に紹介した「高千穂採薬記」などがある。このほか定稿以外に、草稿や野帳の類として残されているものも多い。

〈すぐれた写生術〉

 また図譜の類は、動植物 物産 人物など多岐にわたるが、植物の写生図が比較的多い。形状としては、画帖となったもののほか、目録が添えられて綴じられたもの、あるいは美濃和紙に写生されたものもあり、多くは彩色図である。写真機出現以前の物の写生は、精巧であることが重要となるが、飛霞の写生技術は、詳細を極めてあり、この技術は、若いころ、十市石谷からうけた指導が、大きく影響しているものと考えられる。

〈飛霞の生き方〉  従来、賀来飛霞は、本草学者としてのみ知られ、彼の文芸面については余り関心は持たれなかった。彼は、本草研究の余暇に詩歌に興じたものらしく、遺存する資料のうちに、断片的ではあるが、作品を書き留めたものがある。彼の文芸作品集としては、死後の明治43年、次子 餐(さん)次郎が遺作を 編纂(へんさん)した「百花山荘集」がある。

 散在的な遺作のメモによると、飛霞は、自分の作品を再三にわたって推敲し、もしくは、その道の先達に依頼し、初作が、大きく修正 添削されたものが少なくなく、彼は、文芸活動においても、なまじっかな作歌 作詩に満足しない態度でのぞみ、常に徹底して「完全」を志向していたことが知られる。

 彼の本草研究書の一冊「評草本写真」の後書に、「僕、浅見 寡聞(かもん)、唯恐ルルハ杜撰ヲ免ルル能ワザル事ヲ。識者幸ニコレヲ改正セヨ」と述べている事は、彼が研究に常に科学的態度でのぞんだことを良く示していよう。

 明治21年(1888)3月、79歳で没した。

[後藤 重巳]